横綱の「変化」は、ありえない。

この2017年夏、上野の不忍池は蓮が真っ盛りです。こんなに花が咲いたのは何十年ぶりとか。午後になるとしぼんでしまうので、午前中にお出かけして愛でるのがおすすめです。

さて高校野球での敬遠はダメでしょという話をしたついでに、大相撲のことも。土俵上でたまに見かける立ち合いの「変化」です。これ、ぼくはやはり「否」です。

百歩譲って。たとえば関脇以下の力士が勝ち越しのかかった一番で、喉から手が出るほど白星がほしいときにこの手を使うのは、まあよしとしましょう。その心情はわからないでもない。

けれどもこれを頂点に立つ横綱がやってはダメです。ありえない。たとえケガしていようが、メンタルをやられていようが、あるいは遊び歩いて羽目を外そうが。

横綱は一番強いんです。どんなに成績不振で一場所終えても、大関以下に降格されることがない。すなわち横綱の次はもう「引退」のみ。だから黒星が重なったり休場が相次いだりした横綱に対し、横綱審議委員会(横審)は引退勧告するわけですよね。

「変化」は日本人だろうとモンゴル人だろうとダメです。ただしちょっと気になる点が。モンゴル人力士のほうが、変化で勝利した後も、場内のブーイングどこ吹く風といった体なんですよね。

かつての朝青龍のような「なんか文句あっか」といった態度なら、まだ分かりやすい。むしろ最近のモンゴル人力士は立ち合いの変化そのものを、決まり手のひとつにしか見ていないのでは?とさえ感じます。親方はたぶんきちんと指導してないんだろうな。叱るどころか、部屋の「米びつ」だから甘やかしているのではと勘繰りたくなります。

横審が定める横綱推薦の条件は、「大関としての2場所連続優勝」と同時に「品格、力量が抜群であること」といわれています。いいですか、「力量」の前に「品格」、なのです。これを軽んじてはいけません。つまり「勝てばいい」というわけではないのです。

たぶん変化して勝って平気でいられる力士は、この辺りが根本的に理解できてないんじゃないかとぼくは思う。

勝つためならどんな手を使ってもいいなどという横綱は、真の横綱ではない。なぜ横綱がピラミッドの頂点なのか。それは自分の相撲で、堂々と他のライバル横綱と渡り合い、大関以下のチャレンジを受けて立てるからなのです。

大関魁皇が引退してからというもの、ぼくはあまり熱心に大相撲を観なくなりました。が、稀勢の里の昇進は久しぶりのグッドニュースでした。長い足踏み状態で待たされた分、日本の好角家は喜びひとしおでしょう。

最近は相撲人気が盛り返しているというから驚きです。願わくば力士の皆様には、相撲ファンをがっかりさせるような相撲をとらないでほしい。