人への取材なしに何かを書くこと=自分の内面をアウトプットすること。

前にブログのネタ帳の話を書きましたが、そのネタ帳に10個くらい一言メモがたまっています。ネタ帳といってますが、ただの走り書きですね。ただ、問題はここから。ひとつの話、文章として膨らませるには、ある程度推敲する時間が必要です。

ネタとしてメモっていたとしても、そこからダッシュで書いてUPできるわけではないんですよね。そのテーマについて調べ物が必要かもしれないし、読んだ本をたどる場合もあるし、アイキャッチ用の写真も考えなきゃ。まぁこんなことを書いているのも、すぐに文章に起こせないことばかりネタ帳にメモってたからですね。

シングルモルトウイスキーを飲む場合、そのテイスティングでいっちょ上がり。なのですが、ここ1週間ほどバーで内省ができていないため、その関連では書きようがありません。

ただ、ウイスキーの話に頼らずにブログに向かっていると、とにかく文字を生み出すことに集中するため、「ひたすら考える」という行為そのものが意外な発見でした。ただ文字にするだけではなく、人様の前に出すものとして練るわけですから、あまり空疎なものは出したくないし(空疎か否かを判断するのは読者ゆえ、書き手がああだこうだ言うところではありませんが)。

売り物の媒体を扱っている身としては、ある程度のボリュームの記事を出す場合、人物に話を聞くことを重視しています。なにもなくても、取材した事実があれば書けるわけです。相手が饒舌で内容が面白ければインタビューとしても出してもOK。反対に相手が無口だったり不機嫌だったりしてろくな話が聞けなかった場合でも、これまた1本記事ができる。

むかし、キネマ旬報によるブライアン・シンガー監督へのインタビュー記事を読んで仰天したのを覚えてます。監督が売れっ子になりつつあったころでした。どういうわけかほとんどしゃべらなかったらしく、雰囲気の最悪さが誌面から伝わってきました。それはそれで臨場感があって面白いものなんですよね。一歩間違えると、聞き手が無能と断じられる危険もあり、雑誌の作り手として抵抗感は否めませんが。普通は没ネタだろうと思い込んでいたのですが、これはこれで情報になっている。いま考えると、出すのはアリなんです。

そういった、人という対象に寄らない、内省をよりどころにするエッセイは難しいですね。主体が自分に向くから当たり前ですが。知的美的センス、教養、その人の哲学。ブログを書くとは、卵の薄皮をはぐように素の自分をさらけ出す行為でもあるなぁと気づかされた夜です。