ガバナンスとかコンプライアンスとかが当たり前に叫ばれるようになっても企業不祥事は発覚するし、有名人の個人的な醜聞も未だに大騒ぎされる。
どんな時代であろうと「誠実に」とか「筋を通す」とか、そういう生き方を実践している人はすごいです。
相当なエネルギーと、自分にも他人にも厳しい自律心が備わっていないと、貫き通すことはできないでしょう。
道徳的な話になりますが、「人様に嘘をつくな」と言いますよね。
「隠し事などとんでもない」とも。
ふーむ。
胸を張って「嘘も隠し事も一切ない」といえる人、この世にいるんでしょうか。
いたらいたで否定しませんが、なんだかつまんねぇなと思います。
「清廉潔白な人」「竹を割ったような人」は褒め言葉ですが、ぼくは全然魅力を感じないです。
あとね。
嘘をついていた、隠し事がばれた人が白旗を挙げるのは謝罪、反省、罪滅ぼしの思いゆえとは限らない。
単に「自分がラクになりたい」から。
「本当はこうだった」と告白する場合もそう。
やましさを抱えることに「自分が耐え切れない」だけ。
嘘と隠し事に耐えられなくなった当人は「ついに正直に言った」とカタルシスを覚えます。
これで良心の呵責から解放されたと安堵する。
が、これは当人だけの身勝手極まりない行為です。
聞かされるほうの身にもなれよ。
失望し、傷つき、ショックで口もきけなくなるかもしれない。
もっと始末が悪い例。
正直を是とするあまりに「包み隠さず、洗いざらい言え」などと強要するタイプ。
誰にもいいことがないのに、隠したほうが事なきを得るのに、わざわざ話を大きくする。
しかも火に油を注いでいる自覚がない。
「嘘も方便」とか「惻隠の情」とか、人間の機微に疎く、想像力がないんでしょうね。
こうならないようにするには、当事者の気構えが大事です。
すなわち「嘘や隠し事は、その罪が大きければ大きいほど、絶対に貫き通さねばならない」ということ。
相手に悟られるなど、もってのほか。
間違ってもばれたり、口が裂けても真相を告白してはいけません。
相手を傷つけないため、自分を守るため、墓場まで持っていくのがエチケット。
中途半端に善人ぶる、人間性を保とうとするから相手を傷つけ、自滅するんです。