真に胸くそな話って、それを否定できないことにある気がする。
立場を自分に置き換えて、「おれは違う」「私はこうならない」と断言できるか。
グロ・ゴア表現とか、バッドエンドな脚本とか、そういうのは表層に過ぎない。
『海と毒薬』(遠藤周作/新潮文庫)は、誰がこれを裁けるのかと問いたくなる小説です。
あらすじ
太平洋戦争末期に九州大学で実際に起きたアメリカ人捕虜生体解剖事件をもとにしたフィクション。新宿から1時間かかる郊外に転居した「私」は、気胸に通う勝呂(すぐろ)という医師が事件の当事者だったと知る。F市にある大学医学部研究生の勝呂は、見込みのない患者を医学の実験に使おうとする教授たちにいらだっていた。勝呂が師事する橋本教授は、次期医学部長選挙を目前に、前医学部長の親類である田部夫人の手術に失敗し、死亡させてしまう。橋本は名誉挽回のために、B29搭乗員の生体解剖を行い、勝呂は助手として参加することになる。
なぜ手にしたのか? 読後感は?
20年くらい前かな、長崎を旅行した際、外海地区にある遠藤周作文学館で買ったのがこの本。
積ん読期間が長すぎ、ようやく読みました。
読後は「誰がいったい勝呂を責められる?」と感じたこと。
勝呂には解剖に立ち会うか、立ち会わないかの選択の機会があった。
あったけれども、なぜ引き受けてしまったかが勝呂自身にもわからず、終始受け身なんですよね。教授から持ちかけられた日の夜の一節に
考えぬこと。眠ること。考えても仕方のないこと。俺一人ではどうにもならぬ世の中なのだ。
と、まんじりともせず
夢の中で彼は黒い海に破片のように押し流される自分の姿をを見た。
のです。
犯罪に至るプロセスって、確固たる動機も何もないこともあるだろうな。
「なんとなく」かもしれないし、そのときは「正しい選択をした」と自分では納得しているかもしれない。
会社ぐるみで不正を起こし、従業員もまるで疑問を抱かずに加担してしまうことが今も昔も起きています。
もしも自分が当事者になったときに、「それはおかしい」と言えるか。
下手すると、思考停止を通り越して不感症に陥ってしまうことだって否定できない。勝呂の同僚として物語に登場する医学生、戸田がまさにそんな人物として描かれています。
読んで得たこと
物事を進めるうえで大義名分は大事だが、進めるうちに目的がすり替わっていないか。
それを考えさせられました。
物語の医師たちは戦争医学の進歩を建前として、そのために生体解剖を正当化しようとします。
でも果たしてそれだけ?
鬼畜米英の兵など人間でない、回復が見込めない患者だから実験材料にしていい、自分の立身出世のために必要なプロセスだ。
登場人物たちのそんな思考を、遠藤周作は手加減することなく浮き彫りにしていきます。
生体解剖という非道だけでなく、その前後に至る登場人物の行動は、自分が人間であることを否定してしまっています。あっさりと。
問題はそれに医者たちも看護師たちも気づけていないこと。
それこそがグロテスクで、読後にしばし悄然としてしまいました。
まとめ
神の記述が出てくるのが、いかにもキリスト教徒の遠藤周作さんらしい。
遠藤作品は映画化もされた『沈黙』やエッセイしか読んだことがありませんでしたが、これから幾つかきちんと読んでみます。
人ってなんだろう、神ってなんだろう、ね。
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