最近よくよく耳にする「かわいそう」という言葉。たまにテレビ見てもタレントが普通に使っているし、仕事上の会話でもためらいなく口にする人を見かける。この言葉を聞くと、イヤな気持ちになるんですよね。だって本来の意味とはかけ離れて使われているんだから。
かわいそう
[「可哀相」は当て字]あわれげで、同情をさそうようす。気の毒なようす。ふびん。
――「新選国語辞典 第七版」(小学館)
この言葉を抵抗なく使う人の多くは、おそらく悪気なんかないし、聞いているこちらが嫌な感じを抱いているなどと気づいてすらいないだろうし、そもそもこんな主張は理解不能だろう。
けれども、話し手は「かわいそう」本来の意味である「同情」をしているようで、他人事(ひとごと)感が丸見え。もろに伝わってしまう。もちろん他人事だから当たり前なんですが。そのうえ優越感、今的にいえば「上から目線」で言っているのが分かるから不快なのです。
「上から目線」ではない、という人に問いたい。たとえば上司とか恩師とか先輩とか、自分より目上の人に何か不幸なことがあったとして。「かわいそう」という言葉を目上の人に対して言えますか、使いますか。
もっとも、そんなぼくもこの「かわいそう」という言葉と同類の言葉を使うことがあります。上の国語辞典にも載っているように、
「気の毒な人だ」
「哀れだ」
という言葉です。あまりにひどいことをしてきた相手、侮蔑に値する相手には、こういう言葉を贈るのがふさわしい。
怒りの感情に任せて、相手を面罵するなどもってのほか。そんなことをしたらかえって自分の怒りの火が燃え上がるだけです。こういうふうに哀れみを口にしたり、内心で言ったりすることで(ぼくは内心の自由派です)、なぜか許したくなる思考に切り替わるから不思議です。もうすべてを受け入れよう、って感じになりますよ。
下の写真は上野松坂屋前、救世軍の社会鍋です。見かけると年末気分がグッと高まります。