電車に乗って、そこに中吊りを見つければ必ず見入っていたものですが、また機会が減ります。
2021年8月26日発売号を最後に、週刊文春が電車の中吊り広告を止めてしまうそうです。
雑誌、週刊誌が華やかなりし80〜90年代、「週刊文春」「週刊新潮」「週刊現代」「週刊ポスト」といった週刊誌、「FOCUS」「FRIDAY」「FLASH」などの写真誌、「女性セブン」「女性自身」「微笑」「週刊女性」」などの女性誌などが、扇情的な中吊りでもしのぎを削っていました。
中吊り広告は、それ自体がイケイケだったイエロージャーナリズムの象徴というか、華だったんですよね。
キオスクからはスポーツ紙、夕刊紙の”タケノコ”がいつしか消え、電車は中吊りに代わってビジョン広告に、駅のコンコースはデザイナルサイネージに。
あ、タケノコとは新聞1面の見出しがよく見えるよう、丸めてタテにぶっ刺された陳列のことね。
人々がスマホから顔を上げることがなくなったと同時に、媒体そのものだけでなく、広告の有り様も変わりました。
文春の中吊り廃止は、デジタル化の波を象徴するような出来事です。
競合誌である週刊新潮も、9月末に広告を引き上げて追随します。
むかし情報誌に携わっていた編集の端くれとしては、ノスタルジーに浸らざるを得ません。
が、やっと、ようやくメディアの課金化・サブスクリプション化が動き出してきたなら、まぁ前向きにとらえてもいいのかな。
ほんとにコンテンツが面白ければ(面白いコンテンツを載せているアプリなら)、有名無名問わずお金を落とします。
昨今動画が流行りで、個人的にもYouTube Premiumに入るくらい動画が好きですが。
デバイスがいかに多様化しようとも、活字文化は廃れてほしくないし、廃れないだろうと思います。
なぜって? 活字(テキスト)は読み手に時間が委ねられてますから。
いつでも読んだり、閉じたりできるでしょ。
主体がデジタル機器でなく、こちら側にあるのです。
「いつも振り回される」のではなく、「いつでも繙ける」ほうに、自分主体の時間を取り戻しましょう。
まぁでも、紙の手触りは捨てがたいよね(未練がましい)。