雨の日曜日、自宅のブルーレイレコーダーに録ったまま放置していた映画を2本、立て続けに観ました。偶然ですが両方とも1950年代前半に公開されたモノクロームの名作です。
アンジェイ・ワイダもクロサワも、その作品がBSでたびたび特集される監督ですね。ワイダの『世代』(1954年)はナチスドイツに支配されたポーランドを舞台に、若者のナチへの抵抗と挫折を描いた作品です。なんと、これがワイダのデビュー作なんですね。派手な描写はないけれど、労働者たちの怒りとエネルギーが静かに伝わってきます。日本でいうプロレタリア文学のような、やるせなさと虚脱感も伴っています。
主役の血気盛んな青年を演じたタデウシュ・ウォムニッキもさることながら、ジャンヌ・ダルクのような強く、美しく、はかない指導者を演じたウルシュラ・モドジニスカが素晴らしい。珍しく女優に惹かれました。
BSプレミアムで放送された当時に録ったのですが、このときワイダの”抵抗三部作”としての特集放送でした。続く『地下水道』『灰とダイヤモンド』までは到達できませんでした、疲れちゃって。なんでこんなに悲しい映画に惹かれるんだろう。
もう1本は『生きる』(1952年)です。志村喬がブランコに乗りながら「ゴンドラの唄」という悲しいメロディを口ずさむシーンが有名ですね。それまでの死んだような人生から、ガンを宣告されて「生き始めた」主人公、役所のたらい回し批判など、デフォルメされた描写はたくさんありますが、ぼくが今回感じたのはそこではなく、下記の2点でした。
- 志村喬扮する主人公・渡邊勘治の終末期を彩る男女は陰陽のコントラストに見えた。境遇を理解・共感し、最後の享楽にいざなう小説家(伊藤雄之助)は陰。寂しさを拭い、最後にやるべきことを示唆するヒロイン小田切とよ(小田切みき)は若きメンターであり、陽的存在といえる。
- 志村喬の悲哀に満ちた演技が鬼気迫る。この直後の『七人の侍』のリーダー勘兵衛と同一人物にはやはり見えない。
病に対する向き合い方や人生論など、外国人にはそのメンタリティが理解しがたかったのか、海外での受賞はベルリン国際映画祭のみ。半面、日本では第26回キネマ旬報ベストテン1位、芸術祭賞などを獲得しています。
成果を上げることなのか、名を残すことなのか。仕事や職の面から人生をとらえた場合、誰もが生きた証を残せるとは限らない。たとえ一握りでも、人の記憶に残り、役に立てた仕事を完遂した主人公は立派だったと思う。
2作、噛みしめるように見ました。それにしても「予定のない時間が束である」って、なんてゼータクなんだろう。映画にどっぷる浸ること、というよりも、まとまった時間の確保自体が贅沢になってしまってます。こんなときこそ普段できないことを精査して時間を割きたいですね。