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太宰治の作風に影を落としたかもしれない「地獄絵」を見る

雲祥寺の「地獄の掛図」

斜陽館と旧津島家新座敷を訪ね、金木駅に立ち寄り後に町を歩いていて偶然見つけたのが『金木山雲祥寺』。作家・太宰治が幼いころに乳母たけに連れられてきた寺です。
ここで太宰が目にしたという「地獄の掛図」を見ることができました。

雲祥寺は1591年(天正19年)、九戸政実の乱を逃れた南部櫛引村領主・武田甚三郎によって1596年(慶長元年)に建立された寺で、宗派は曹洞宗通幻派です。
1969年に建てられたという総ヒバ造りの本堂内の左手に、太宰が見た『寺宝十王製陀羅(通称「地獄の掛図」)』があります。

絵の脇に掲出されている説明書きによると、この絵の作者は不明。制作年代は、絵に描かれた習俗などから江戸時代中期ごろと推察されるとのこと。
太宰の作品『思ひ出』によって紹介され、現在に至るまで太宰文学研究者や愛読者が見学に訪れているそうです。

「六つ七つになると思ひ出もはつきりしてゐる。私がたけといふ女中から本を読むことを教へられ二人で様々の本を読み合つた。たけは私の教育に夢中であつた。私は病身だつたので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなれば、たけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを覚えてゐたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。たけは又、私に道徳を教へた。お寺へ屡々連れて行つて、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火を放つけた人は赤い火のめらめら燃えてゐる籠を背負はされ、めかけ持つた人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながつてゐた。血の池や、針の山や、無間奈落といふ白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでゐた。嘘を吐けば地獄へ行つてこのやうに鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。

太宰治『思ひ出』より引用

地獄絵の内容

色彩は岩彩で、彩色は金箔ゆえ現在も保存状態はよく、鮮明に保たれています。アイキャッチ写真は部分ですが、巻一から巻七の掛け軸です。
左上の新死から死出の山の山登りが始まる巻一から「賽の河原地獄」がある巻二、畜生や修羅の地獄と殺生の地獄の巻三、壮絶な地獄責めの巻四を経て、太宰の『思ひ出』に記されているのが巻五。
嘘をついた罪で舌を抜かれる罪人と閻魔王が描かれており、乳母たけの説明を記憶に留めたこの巻は、太宰文学の原風景ともいわれるように。
巻六で酒の滝に溺れ苦しむ酒亡者が。巻七で亡者が成仏していく一方で、不邪淫戒を犯した男が双頭の女に絡まれて苦しむ様子が描かれています。

時を経て太宰と同じ絵を見る奇縁

地獄絵は思わず見入ってしまう迫力と不気味さに満ちており、こりゃ太宰であろうとなかろうと、幼い子は泣き出すわな。
新座敷で太宰の書斎に腰かけたこともあり、偶然とはいえ、こんなところでも太宰の足跡を見つけられるとは。ラッキーでした。

それにしても。たけさんは、実際太宰をかわいがっていたのはもちろんですが、子守としての才能と、なによりも愛情深かったんだなと。
地獄絵のインパクトは、たけという乳母の伝え上手あってこそ生きたのかもしれない。そう感じるのです。

雲祥寺本堂全景

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hiroki「酒と共感の日々」

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