毎年この時期になると、NHKの演出家だった吉田直哉さんのことを思い出します。2008年の9月30日に亡くなっている方ですが、生前インタビューしたときのことが忘れられません。
吉田さんは1953年に東大文学部を出た後、NHKに入局。大河ドラマ『太閤記』(1965年)、ドキュメンタリー『未来への遺産』(1975年)など、数多くの名作の企画・演出を手がけた伝説のテレビマンです。著作も20作は下らず、自らのテレビ番組制作に由来するノンフィクション、エッセイはとにかく面白い。小説家としても達者で、『ジョナリアの噂』は芥川賞の候補にもなったほど。
吉田さんに話を聞きに行ったのは2002年の春。『NHK特集「ミツコー二つの世紀末ー』(1987年)がNHKアーカイブスという深夜枠で再放送されることがきっかけでした。『ミツコ』は吉田さんの手がけた番組のひとつ。明治時代、西洋貴族と結婚した初の日本人女性・クーデンホーフ光子の軌跡をたどった番組でした。
「吉永小百合さんがレポーターとして光子の足跡を取材し、感情移入したところで、衣装を着て光子を演じてもらう。ドキュメンタリーでもドラマでもない、その中間のX(エックス)の番組という形で作りました」と話してくれたほか、吉田さんは自らのドラマツルギーや、現状の放送業界について、とうとうと雄弁をふるわれました。
吉田さんはギョーカイの人にありがちな、押しの強い居丈高の人ではありません。(当時は)若かったぼくに対しても物腰穏やかに、丁寧に話してくれました。
「大宅壮一さんがテレビが低俗だって『一億総白痴化』と言ったでしょ。ぼくはそれにアタマにきて”テレビが高級なことを言えるって証明してやる”と思って『日本の素顔』を作ったんです」
「今の大河ドラマは人物が出てくるたびに誰某とテロップが流れる。ぼくが『太閤記』を演出したとき、ナレーションで補足しようかと脚本家(茂木草介さん)に相談に行ったら、『冗談じゃない。人物がいちいち名札をぶら下げて出てきますか? ”お屋形様”と呼びかければ信長と分かるでしょう。(視聴者が)分かるように書きますから』と怒られたものです。(作り手には)それくらいの矜持があるはずなんですけどね」
吉田さんは当時、食道がんの治療後で声があまり出せない状態でした。テープレコーダーを回しつつ、吉田さんの声を逃すまいと必死に耳を傾けるぼくがふと前を見ると――。吉田さん、いつのまにかテーブル上に置いていたテレコを手に取り、自らの口元に当てて話してくれていたのです。
一瞬固唾を飲みました。そして深い感動を覚えました。それくらい「伝えたい」という思いが強い人だったのでしょう。
『NHKアーカイブス』の収録が行われた高輪プリンスホテルのロビー。1対1のインタビューは1時間くらいでしょうか。吉田さんの話の面白さにあっという間に時間が経ち、頭から湯気が出るほど興奮したことは今も鮮明に覚えています。
ぼくが就職したときからとっくの昔にNHKを退職されており、文筆業に力を注いでいた吉田さん。すっかり吉田さんのファンになったぼくは、その著作に触れるたび、当時のインタビューと放送・映像業界について考えてしまうのです。吉田直哉の再来となる作り手、いつ出てくるんだろうと。