雑誌作りのはしくれとして、広め、伝えるに値する情報をお届けしたいと常々思っている。が、こう考えるのはそれこそゴーマンな話で、リコメンドすること自体が罪なのではないか。もちろん功もあると信じているけど(でなければ仕事の意味がない)、情報爆発の時代にどれほどの意味があるのだろうか。最近ますます考えることが多くなった。
物事・事象があって、それを加工して世に送り出すのが新聞・テレビやラジオだ。僕はそうやって作られたコンテンツの数々を紙などを通して紹介している、言ってしまえば「二次加工」業なのだ。
このブログの更新も、飲んだもの、観たこと、聞いたこと・遭遇したことなど、体験しないと書くことができない。体験がなければ、日ごろ考えていることなどを文章にするしかない。
ゼロから創作する小説や、オリジナル脚本の映画・演劇が高く評価されるのは当然のこと。小説家や(脚色ではない)脚本家、映画監督が高く評価されるのは当然だ。その思考や「降りてきた」ものを、文字や画という形にでき、それで人の心を打つことができるのだから。漫画家しかり、作詞家や作曲家もしかり。他にもいろいろある。
そういったアーティスト=芸術家ですら、本人が認めようが認めまいが、「誰某のテイストを感じさせる」とか「作風はホニャララのパクリでは」とか、痛くない腹を探られてしまうのが現代。確かに、本人が認めなくても完成品が知らず知らずのうちに何かしらの影響を受けていることは、別に珍しくもないことだろう。
してみると。本当の意味での「完全オリジナル」は存在するのか。それは結局、物語をずっと昔に編み出した古典、クラシックということになるのだろう。情報が氾濫する現代において、独創性はどうやって生み出されるのか。イチから生み出すことはあっても、真の意味でゼロ=無から創作することは不可能に近いことかもしれない。こんなふうにたどっていくと、結局「発明史」の話になってしまうけど。
要するにゼロから生み出せる人はすごい。ないものねだりの、何ということのないオチ。