今さらTwitterにハマっていて(ほとんど読むだけですが)、炎上(マーケティングもどき含む)を目の当たりにして思うことがあります。
批判はあって然るべきと思うのですが、趨勢が攻撃に転じることがあるんですよね。
最初から攻撃的な投稿やリプ、リツイートも多いのですが。
こんにちは、hirokiです。
批判は慎重にしなければならないという話を、今日はポジショントーク的に少し。
批判と攻撃は区別できるはずですが、コトはそう容易じゃありません。
相手を建設的に批判したつもりでも、相手が攻撃と取れば、そこから批判ではなくなるのが現状。
批判されたほうが、批判を受け止め、咀嚼し、「あぁ自分に非があるな」「反省すべき点があるな」と受け取れれば、そこから成長の余地はあります。
けれど、それを批判された側が批判を悪意と取るとどうなるか。
黙って耐え忍ぶか、批判してきた側に口ごたえし、非難の応酬になってしまう。
どこに行っても個人的にはムッとする出来事に遭遇するもので、なかには「なにを!」と怒リたくなることも多々。
でも、怒りの導火線に火を付けるものばかりでなく、あの人は「なぜ、あんなことを俺に言ったんだろ?」と思い返すことも。
それは、よくよく考えてみると「あぁ、あれはソッと物事を教えてくれたんだな」とか「強く言わなきゃオマエ聞かんだろ?的な意味合いがあったんだ」とか、時間が経ってから理解できるものも多々です。
感情的になってはいかんぜと昨今よく言われるのは、この辺の教訓もあるのでしょう。
怒りに任せるとロクなことはないですが、かといって怒りをたやすく忘れるのもどうかと思います。
相手を侮辱したほうは忘れるだろうけど、ぼくの場合は侮辱されたと思ったら、少なくとも頭の片隅では覚えてます。
ガンジーの『弱い人間は決して許すことができない。許すということは、強い人間であることの象徴だ』という名言は立派ですが、「俺は弱い人間なんで」と居直りたくなります。
いじめを受けて自殺した人、犯罪被害者やその関係者に対し、同じことを言えるのかね。
ま、こうした言葉が尊重されるのは、戦争やテロが繰り返される世界の今昔をみれば分かることなんですけど。
全然関係のない話に脱線しますが、宝塚歌劇でたびたび上演されている人気演目に『ミー・アンド・マイガール』があります。
名門貴族の私生児である粗暴な青年ビルを、伯爵夫人とその関係者が一流の貴族に仕立て上げる物語(後年のブロードウェイミュージカル「マイ・フェア・レディ」はこの変奏版ではないかとも思えます)。
ビルの恋人サリーは家柄の違いに、恋を諦めそうになるのですが、最後は伯爵家の粋な差配によって彼女も一流のレディに変身。
彼と劇的な再会を直前にして、彼女が言うセリフがニクい。
「私たちは正しい扱いを受けると、心を動かされがちになるのです」
このセリフが大好きで、ぼく自身が心を動かされているのですが……これって、普遍的なことだと思うんですよね。
論破とか、マウントとか、上から目線とか。
つまらねえなと思ういっぽうで、これらがパワーワードになるのには、投げつけられることで生じる怨嗟があるからです。
「正しい扱いを受けていない」どころか、侮辱されたと感じたら、そら不機嫌な人は増えてトーゼンでしょ。
「倍返しだ」みたいなセリフを痛快と感じる人が多いということは、やっぱり世の中ギスギスしてるのだと思います。
何が言いたいかと言うと、
「言葉や行動には最大限、気をつけよう」
と。
自分の言葉がもたらす影響は計り知れません。
フォロワーの数がどうとかインフルエンサーがどうとか、そんな話じゃなく。
人と少しでもかかわる人は、自分とのコミュニケーションの手段である言葉を相手がどう思うか、想像力を働かせすぎて損はないのです。