スマホで写真撮影するヒマがあるなら、他になにかできるんじゃない?
どうにも違和感を覚えたニュースがあったので、ひとことだけ。
米ミネアポリスでアフリカ系アメリカ人のジョージ・フロイトさんが白人警官の強引な拘束により亡くなった事件。
この瞬間をスマホで撮影した少女に、ピュリツァー賞の特別賞が贈られるそうです。
彼女が撮影し、SNSに投稿しなければ、この事件自体が闇に葬られることもあっただろう。
そう考えれば確かに意義は大きい。
ですが自分の肉親や恋人など、極めて親しい人が同じように切迫していたら?
相手が警官であれ怖い人であれ、助けようとするでしょ、止めに入るでしょ、相手が警官でも事態を必死に制しようとするでしょ。
この事件の場合、止めに(引き剥がしに)入ったとしても警官にノサれて終わりで、結果は同じだったのでは?
なるほど、だとしても「よく平気で見ていられる、撮影できるなぁ」と思っちゃう。
ある意味、この少女もフロイトさんが赤の他人だからこそ冷静に間近で見られ、撮影できた。
そのうえに「黒人に対する嫌悪感が警官の行動に表れているんじゃない? いちお撮っておくか」と、彼女がもしそこまで考えていたなら、恐るべき洞察力。
相当違和感があったから撮影したんだろうけど、どうあれ客観性が求められるジャーナリストのマインドを体現するような、プロ顔負けの「取材」です。
生きている以上こういう場面に居合わせる可能性があり、スマホが普及した今、誰もが決定的瞬間を押さえるジャーナリスト候補になるんですよね。
なんだかなぁ。
じゃあ、もしおまえが居合わせたらどうするんだって?
少なくとも撮影はしないかな。
遭遇してもすぐに立ち去ると思う。
警官が取り押さえている時点で「あぁ、悪いコトしたやつが捕まったんだな」というバイアスが働いているので、よほどの異変がないかぎり素通りですよ。
身内であれば真逆です。
すぐ行動する、当たり前だよね。
いっぽう、写真をテーマにしたトピックでも、こういう試みには共感を覚えますよ。
同じ朝日新聞の記事の引用で、福井県の景勝地・東尋坊で自殺防止の取り組みを写真集を通して行っているNPOです。
実際に、自死しようとしている人の行動を止めに入っているうえに、その後のケアまで行っている人たちの話です。
こういう取り組みで写真が使われるなら、うなずけます。
人の命って何なんですかね。
柄にもなく考えてしまいました。