人は信じたいものしか信じない、見たいものしか見えない――これ真理でね。
科学的根拠や正論を突きつければ、納得してもらえるかといえばむしろ逆。
説得を試みたところで、相手は態度を硬化させるばかり。
SNSの世界やコロナ禍での分断を見ていると、つくづくそう思います。
「論破」などという寒々しい言葉が闊歩し、自分がフォロー中のフォロイーのツイートに「いいね」やリツイート、リプで油を差す。
反対に、相容れない人間には炎上の燃料を投下する。
常に自分が正しいと信じ込み、自分の意見だけを押し付け反論。
「そういう意見があるんだね」と聞く耳を持たない。
よく世間で「自分の軸を持て」という人がいます。
自分の中でブレがない、これだけは貫く、譲れないという境界線や価値観、行動規範のことですね。
分かりますよ。
でもそういうのって、明文化しなくたって、誰の内面にもあるものなんだよね。
内面にあるものがわからない?
たとえば、人との議論でも、日々の出来事で遭遇した出来事のなかでも
「それは違うだろ!」
と思うもの。
ネガティブですが、それが内面を支えるものです。
「正義」とも換言できますけどね。
ぼくの場合、たとえば
- 身内びいきで公平性を欠く
- ロジック一辺倒で情緒を欠く
- 唯我独尊で聞く耳を持たない
このような類の人とは、付き合いが難しいです。
極力避けます。
そう、むしろ凝り固まった思想ほど、怖いものはない。
考え方がアップデートできないから、おじさんはいつまでたっても過去の栄光、成功体験にすがる。
結婚したら子どもが作るもの、仕事はこうするもの、若者は指導してやらないと分からないもの、女性は家庭に入るもの。
枚挙にいとまがありません。
若い人でもこういう昭和的発想をする人がいれば、それはおじさんと同根です。
冒頭の「人は信じたいものしか信じない、見たいものしか見えない」に戻ると――。
Twitterが典型ですけど、自分がシンパシーを覚える人のつぶやきに寄り添っていたいわけです。
イデオロギーや行動の是非はさておいて。
内面に合致する人でないと結局は不快になるだけで。
「軸」なんて重い言葉を、軽々しく使う人には用心したほうがいい。
そういうことを言う人には、「あなたこそ軸を持ってるの?」と問いたいし、あまり軽々と口外するものでもあるまい。
その譲れない一線以外で、これはという新しい知見はどんどん採り入れる。
バランスの取れた人間になりたいものです。
ブレまくり? それがなにか。
政治家ならいざしらず、サラリーマンで「スジを通す」を貫ける人がいたらご立派。
それがままならないなかで、しなやかに生きる人こそ、ほんとうの意味で強いんじゃないかな。