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酔っぱらいを愛すべきとき、とは?

コロナ禍のご時世、駅や電車の車内でフラフラになっていたり、くだを巻いていたり、吐いたりしている人を見かける機会が減りました。
その半面、電車の中ではスマホにストレートネックで向き合っている人ばかり。

かといって「シーン」と静まり返っているかというとそうではなく、グループや二人連れなどの中にはぺちゃくちゃ喋ってるのもいる。
これらは当然内輪の話なのでどうでもいいし、聞く耳を立てたとしても面白いわけがない。

かつて22時過ぎの電車にいた酔っぱらいは面白かった。
吊り革につかまって足をカクンカクンさせて寝る(立ち寝)、座席の隣の人に寄りかかって寝落ちする、駅のホームならベンチから立ち上がれない、などなど。
いずれも疲れ果てて、寝ちゃってる。
これらはまだいいほうで。
だって静かにしているなら、周囲への迷惑のかけ度合いなんてたかが知れてます。

それより面白いのは、独り言や二人連れで喋っている会話の中身。
別に盗み聞きしているわけじゃないよ、ただ自然と耳に入ってきちゃう。
社会的な憤りから時事的なもの(政治・宗教・スポーツ)、果ては若い時分の武勇伝まで。

いいじゃないですか。
今や会社でしようものなら鼻つまみ扱いの「過去の栄光」も、お酒混じりなら許せてしまう不思議。
でも、これでさえ、絶滅危惧種になりかけてますね。

日ごろ本音を堪えている人は、たまにガス抜きの場を自分で作ってうまくやってほしいな。
これすら白眼視される現状がおかしいことに、酒飲みこそ声を上げてほしい。

この記事を書いた人

hiroki「酒と共感の日々」

hiroki

Webの中の人|ウイスキー文化研究所(JWRC)認定ウイスキーエキスパート|SMWS会員|訪問したBAR国内外合わせて200軒超|会員制ドリンクアプリ「HIDEOUT CLUB」でBAR訪問記連載(2018年)|ひとり歩き|健全な酒活|ブログは不定期更新2,000記事超(2022年11月現在)|ストレングスファインダーTOP5:共感性・原点思考・慎重さ・調和性・公平性