朝日新聞デジタルの有料記事を回遊中、転がってきた記事を読んでみました。
上の記事内で雨宮処凛さんは、「収入も貯蓄もなくなった人が現実に使える制度は生活保護しかないケースが多い。にもかかわらず、元中間層に生活保護を勧めると、強い抵抗を示す傾向がある」と言及。
背景には「自分は生活保護を受けるほど落ちぶれていない」し、「怠けて得しているように見える誰か(たとえば透析の患者や高齢者、ベビーカーを押す母親)がバッシングされる社会に向けた意識が、自分に跳ね返って『生活保護だけは嫌』となる。やりきれない」と答えています。
自分ならどうするか
特にこれといった強みもなく、努力嫌いで、日々テキトー。どうにか食えているのは、ひとえに「運のよさ」だけ。
その運はいつ尽きるか。いつ食えなくなるか内心ヒヤヒヤ。かといって不測の事態に何か備えているかといえば、不作為の極み。ダラダラと無駄に息しかしてない。
こんな自分ですから、食い詰めたら、そりゃもう救済手段を使いまくりますわ。
ただし悲しいかな、たぶんそこまで行かないでなんとかしちゃうのですよ。
仕事は働けるならなんでも。選んでいる場合じゃない。同時に支出を抑えにかかる。飲みに行くなんざもってのほか。
ストレスや重責度の比率に応じて報酬が上げ下げするなら(実際そうだけど)、ぼくはそこにすがらず、ラクなほうを選びます。
ギャラはいいけど休日もない、プレッシャーも半端ない。そんな人生考えただけでもゾッとしないね。御免被るわ。
限りある人生だから、楽しく生きたい
日本国憲法第25条では「健康で文化的な最低限度の生活」を保障しています。上の記事にある「生活保護を受けたら終わり」だなんて、実にもったいない。
こういう考えに行き着いてしまうのは、おそらく「人に迷惑をかけてはいけない」という儒教的価値観であると同時に、日本人特有の見栄や世間体があるんでしょうな。
よくよく見ると、これら全部評価軸を他者にしているから起こるわけ。
いったい誰の人生を生きてるの? 自分が苦しくなるだけなんだから、んなもん捨てちゃったほうが楽よ。
上昇志向とか経営こそ醍醐味的な考えを否定しないけど、価値観がそれのみで生きている人って、ある意味不憫だな。それで楽しきゃいいんだけどね。