不条理演劇の傑作として今に語り継がれる『ゴドーを待ちながら』(1952、サミュエル・ベケット、安堂信也 高橋康也訳、白水社、EN ATTENDANT GODOT)は、起伏に富んだ現代劇に慣らされた身としては難解な作品です。
登場人物は5人。ふたりの浮浪者、エストラゴンとヴラジーミルがとりとめのない会話を交わしながらゴドーという人物を待っている。
途中ポッツォとその下僕ラッキーがふたりの前に現れるもやはり会話が延々と続き、これとは別に少年がやってきて、ふたりに「ゴドーは来ない」ことを告げる。
結局ゴドーは最後まで現れない。
物語の言いたいこと、テーマはなんだろう? さしずめ「己の中にこそ生の答えがある」といったところ。
何かに期待して漫然と生き、結局何事もなく生を終えていく人間。しかしそれこそが人間の生なのではないか。
生きることに意味などあるのか(いや、ない)――難儀して読み終えた末の、これが個人的な解釈です。
高橋康也さんによる巻末の「解題」によると、彼らが待っているゴドーは「ゴッド(神)」のもじりとして“神もどき”を待ち続ける現代人の寓意ともとれるそう。
たとえば浮浪者ふたりは神の来迎を望んでいるのだとか、神ではない別のもの(革命やご利益、死など)を待っているのだとか、何かが救ってくれるという幻想への風刺だとか、幻想を捨てられない人間に対する共感や憐憫だとか、ベケットは解釈を観客に委ねています。
キャラクター設定を持たせ、起承転結のストーリーがある演劇や映画が当たり前の(当たり障りのない)エンタメ。
いっぽうで、「ゴド待ち」のように受け手が観劇後(読後)深く反芻する作品は昨今少ない気がします。
解のない状態に耐えうる能力を「ネガティブケイパビリティ」といいますが、本作はそれを演劇で表したものではないでしょうか。
概念と謎に満ちており、第1幕94、第2幕50もの注釈をめくると、旧約聖書や哲学、神学、神話などからの繙きが。
ワシ自身は普段使わないアタマを目いっぱい使ったところで己の脳みその低いスペックを思い知るだけでしたが、それでも全く視点の異なる世界を知る時間を過ごせました。
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