忖度は「推察」、斟酌は「くみ取ること」――。「忖度」という言葉が頻出、定着しましたね。似たような言葉で引き合いに出されるのが「斟酌」で、こちらのほうが行動に表れている分だけ一歩踏み込んだ感があります。なぜ忖度だけ使われるようになったのか。語感とか最初に使った媒体の影響力(拡散)とか、いろいろあるのでしょう。
そん-たく【忖度】
[名][「忖」も「度」もおしはかるの意]他人の心の中をおしはかること。推察。
新選国語辞典 第七版(小学館)
しん-しゃく【斟酌】
[名][「斟」も「酌」もくみとるの意]1.てらしあわせて参考にし、取るべきを取ること。参酌。「双方の事情を――する」2.事情をくんで大目にみること。「今度だけは――してやる。」3.ひかえめにすること。えんりょ。「――はいらぬ」
新選国語辞典 第七版(小学館)
言動を見ていれば、その人の器量や人間性がいやでも分かりますよね。僕の場合「想像力の有無」というのがポイントで、これがある人とない人で雲泥の差があると思っています。僕にとっては想像力=やさしさと同義なのですが。
忖度って本来いい意味のはず。それがなんだか「先回りして便宜を図る」「(権力者・決裁者側の)意図をうまくとらえて良きにはからえ」的に拡大解釈されてしまっていて、言葉自体にダーティなイメージがついちゃった。
よかれと思ってやったことがかえって悪手となった、予想とは別の方向にコトが転がったなど、誰でも身に覚えがあるはず。なんでもかんでも空気を読む必要はないし(空気読めよーって言いたくなることはよくあるけど)、自分の好きなようにアクションすればいいと思います。
問題なのは、そして気味が悪いと思うのは、無言の同調圧力につながっている点です。モリカケやタックルの関係者だけではありません。黒いドレスは強制されて着るものではないよね。アイスバケツ(古っ)だって強制されて水かぶるものではなかったよね。改憲の人もいれば護憲の人がいてもいいよね。
金子みすゞではないが「みんなちがって、みんないい」はずだよね。
少数派、弱者がワリを食うのは今に始まったことでないにせよ。一部の弱い人たちによる窮鼠猫を噛む的な言動には、ひそかに恐怖さえ感じることもあります。「怒られたら泣く」のが典型例。あと超レアケースで「土下座」もそう。されたほうは困惑してフリーズするしかない、弱者の恫喝ってやつです。電車内での「この人チカンです!」もそう。あ、痴漢はダメですよ。僕が言っているのはやってもいないのに指弾され、駅員に突き出される恐怖です。考えただけでぞっとします。
「弱者の恫喝」については、佐藤優さんが『交渉術』(文藝春秋)という本でエピソードとともに書かれています。新堂冬樹さんは『カリスマ』(幻冬舎)という小説で、弱者が強者に変わる一面を描いています。どちらもぜひ一読を。
僕自身弱者ではないけど、残念ながら強者でもありません。孤軍奮闘からのハリウッド的な大逆転劇は嫌いじゃないです。けれど、流れが変わった瞬間、この流れを逃すまいと対象の追い落としや、いやがらせに血道をあげるような人とは一線を画したい。自分を捻じ曲げてまで、官軍に付きたくないし。
違和感を大切にしたい。想像力を持った少数派でいたい。
何度かこのブログで書いていますが、ジョージ・オーウェルの『1984』のような全体主義的な潮流、戦争反対派が賛成の世論に駆逐されていった戦前にまで思わずにいられません。
「忖度」という言葉から、いろいろ考えたひとときでした。