噺家が寄席や落語会でかけたその日の演目・演題をSNSに載せる件について、賛否両論あるというネットの記事を読み、考えさせられました。
このブログを読んでくださっている方はご存知でしょうが、ぼくも寄席やホール落語会、独演会に足を運んだ際、噺家とその演目についてはテキストに起こしています。ホール落語で終演後ロビーに演目が張り出されたら、iPhoneで写真にも撮り、このブログでUPしてます。
なぜ、そんなことをするのか?
ぼくの場合、単純に「メモ書き、覚え書き」のため。「ブログネタ」のため。理由はこの2点です。さしたる意味はないんです。SNSでもツイッターでたまに触れる程度で、要は記録(ログ)を残すことが目的です。
「そういえば去年の正月の鈴本はどうだったっけ?」というように、後で自分が振り返るときに、役立つんですね。
「じゃ、てめえのナイショの日記でやればいいだろ」と言われそう。たしかにそれでもOKなのですが、せっかくだから公の場(ネットの海)に泳がせたいと思ってしまうんです。誰かの参考になればという一縷の思いが半分、あとの半分は自己満足です。
賛否両論あるのはわかります。ネタバレなんじゃないかとか、かえって興をそぐとか。
たしか春風亭一之輔さんも、独演会のまくらで「なんであれ(張り出される演目)、みんなスマホで撮るんですか? 何をやったかなんてのは観終わった瞬間、忘れて帰ってほしいんですよ」というようなことを、話したことがありました。
んんー、噺家さんから見ればそうですよねぇ。こうした行為は、野暮であり無粋なのかもしれない。
作詞家・松本隆さんは、歌詞を思いついたときでもメモることはしないそう。
詞のかけらを思いつくと、メモはせず、心の中で熟成させる。メモしないと忘れることは、忘れてしまった方がいい。
(朝日新聞2017年4月10日付夕刊文化面コラム)
とまで言い切っています。
「ほんとうの言葉」を紡ぐ力のある人は、こういうことが言えるんですよね。この境地に達するのは、松本隆さんはじめ、一流の小説家とか書き手のみなんだろうな。
落語の演目から、記憶について、文としてカタチにすることについて。考えさせられました。単なる鑑賞者でしかないのですが、それでも伝わるように伝えることについては、どうしていけばいいのか。書きながらあがいていくつもりです。