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想像力を喚起させるもの。

自宅のBlu-rayレコーダーの容量を空けるべく、録画してあった映画を少しずつ観ています。昨日は久しぶりに黒澤明の『隠し砦の三悪人』(1958年東宝)を。

黒澤初のシネマスコープ作品で、ワイド画面を生かす計算されつくした俯瞰映像も素晴らしい。ヒロインの姫を演じる上原美佐の綺麗さは異様なほどだし、メッセージ性のない脚本の娯楽度も二重丸。ハリウッド映画好きの若い人が、最初に触れる黒澤映画としてもお勧めしたい。

けれども、最も感じたのは「情報過多の排除と、情報の集約性」です。

要するに映像と脚本のセリフだけで、観客に伝わるようにしている。当たり前だろって? 今の映画やテレビドラマをご覧なさい。至るところに字幕だらけ。カメラワークを工夫し、処理してるっぽく見せないようリアルに近づけた特殊効果。

そういう余分な情報がないモノクロの映像は、だから観客に集中力を求める。ちゃんと理解しようと思うと、否が応でもスクリーンに目と耳を集中せざるを得ない。

いや、ほんとうに面白ければ、観る人の目と耳は気張る必要なんかない。自然とスクリーンに注がれます。

昔と今を比較して。今の映像表現を批判しようと思いません。誰もが情報の渦に飲まれないよう、かつ少しでも早く安く情報を入手しようとする現在(意識の有無に関係なく)、映像の作り手が観る人の気を引くべく、表現に手練手管になるのは仕方のないこと。

けれども、久しぶりに黒澤の映画を見て、「あぁ、うるさくないな」と思ったんです。一喝どや的なセリフの多い三船敏郎のセリフを何遍聴いていても、ね。

それはたぶん、セリフと映像のみで伝えようという、シンプルな1点のみだから。当の黒澤さんに言おうものなら「それ以外に何があるんだ」と鼻で笑われるかもしれませんが。

映画には○○時代とか、○○県とか、そんな舞台設定の説明は一切ありません。髷物の武士、姫、百姓といった人物像は出で立ちを見れば分かるし、荒野の表現も「ああ、ここはどこかの地方なんだな」くらいのもの。

そうやって観客の想像力を自然に喚起させるのが、優れた作品なんだろうなと思います。これは映画やドラマに限らず、究極の削ぎ落としである落語でも、美術作品でもそう。反対に、小説などのテキストは表現が文字・文章の分だけ、言葉を尽くす必要がある。ゆえに語が多くなる。

想像力を喚起させるものに、もっと出会いたいですね。

この記事を書いた人

hiroki「酒と共感の日々」

hiroki

Webの中の人|ウイスキー文化研究所(JWRC)認定ウイスキーエキスパート|SMWS会員|訪問したBAR国内外合わせて200軒超|会員制ドリンクアプリ「HIDEOUT CLUB」でBAR訪問記連載(2018年)|ひとり歩き|健全な酒活|ブログは不定期更新2,000記事超(2022年11月現在)|ストレングスファインダーTOP5:共感性・原点思考・慎重さ・調和性・公平性