知人・友人から「ブログを読んでる」と言われることは、ブロガーの人なら誰にでも経験があると思う。書くからには読んでほしい。だからブログを始めた当初は、SNSなどを通じて「開設したよー」と告知する。
僕はこのドメインを取得して最初の記事をUPしたときと、ちょうど1年のときにFacebookコミュニティで告知した以外、一切アナウンスしていない。ブログを始めたと伝えたのも、あまり密接でない「ゆるい繋がり」の人のみ。一次の隔たりである(数少ない)友人・親兄弟には一切伝えていない。
「なぜ」と聞かれることがあるんだけど、正直自分でもよく分からない。読んでほしい気持ちと、知られたくない気持ちが相克している。行動的な人はこの辺りに躊躇がない。だから気持ちがいい。僕はそういう人たちに引っ張られて、ここまで来られた面がある。
そこへ行くと僕はやはり内向的人間なのだろう。自分でも苦笑してしまうのだが、ブログを書いていると虚しくなるときがある。ときにブログは、書き手の虚しさを助長するツールじゃないかとさえ思う。何を悶々としているの? ネタがないなら無理する必要ないんじゃない? 誰もあなたのことなんか気にしてないよ? 云々。もう一人の自分が更新させまいと囁いてくる。
自分のほんとうの理解者、一人でもいたらすごいこと。理解者とは「あなたの本質を理解し、ドリームキラーにならず、見守る人」とでも言おうか。
そんな素晴らしい理解者、いますかね。自分の素顔をさらけ出すことができる相手がいたらすごい。誰に接するにも、人はどこかでブレーキをかけているもの、なんじゃないかな。
「誰もあなたのことなど気にしてない」は、堀江貴文さんが自著『多動力』(幻冬舎NewsPicksBooks)で語っていたことだ。この言葉に大いに触発されたものの、誰も気にしてないから好き勝手やれるかというと、そうではない。
たとえわずかでも読み手のことを意識してしまうと、そこに書き手の脚色(演出という言い方でもいい)が加わるのだ。いや、不特定多数の読み手なら全然問題ない。ある特定の知り合い(ほとんどにおいて一次の隔たりの人)が読んでいると知った時点で、自由度が一気にダウンする。
自分のモレスキンには予定ではなく、目標とやったことを書き連ねているのだけど、これにリフレクション=内省的一言を加えてみようと思う。他人ではなく自分に対する閻魔帳である。